ふるでぃーの本棚

読んだ本の内容整理。

Vtuberという希望─身体とアイデンティティ試論─

 面白くもない会話に楽しそうに相槌を打つ。大してお世話になっていないのに、メールの挨拶はお世話になっておりますから書き始める。内心で思っていることと実際にやっていることが違っている。

 そういうことはよくあると思う。

 人と接しているときの人間は本当のその人ではないのかも。疑ってしまったら最後、こう問わずにはいられない。

 「お前の中の人は誰だ?」と。

 僕の記憶だと、中の人というのはアニメに声を当てている声優さんを指す言葉だった。声優という人格がアニメのキャラクターという別の人格のフリをしているのだ。私たちが見る(聞く?)キャラクターの声はその人の声ではなく、声優という別人の声なのである。一般的な観点から言えば、アニメのキャラクターは実在しない。姿格好はイラストレーターやアニメーターが生み出したものだし、声は声優が当てている。

 最近は、この「中の人」という言葉が使われる文脈が少し多くなっている。二次元のキャラクターの見た目でYouTube上で配信をするVtuberに対しても用いられるようになっているのである。可愛い女の子が近況や思ったことを話してくれたり、動画のコメントに対して答えてくれたりする。特に名取さなが可愛い。名取は顔も良いし、声も良いし、性格も良い。

 しかし、それは「虚構」である。彼らの世界では、キャラクターの設定では17歳なのに配信をしている本人は20代後半なんてことは日常茶飯事だ。当たり前だが、僕たちが見ている可愛い女の子は、彼女じゃない別の誰かが演じているのだ。

 ・・・でも、本当は彼女たちは実在するんじゃないか?

 これが本稿の主張である。もしかしたら、オタクが訳の分からないことを言っていると思われるかも知れないが、マジでこう主張したい(真剣と書いてマジと読む)。

 さて、ここで話のはじめに戻ろうと思う。

 僕たちはしばしば自分の心とは違った行動をとる。「心にもないことを言う」なんて言葉があるが、それが最たる例だろう。そのときに僕たちは、本当の自分はこうじゃないのになんて思ったりする。

 しかしながら、そんなのは勘違いである。どこが勘違いかというと、「心」や「本当の自分」を見つけることが自分だけの特権であると考えているところだ。

─本当は大好きな友達の悪口を言ってしまった。本当はそんなこと思っていないのに。

 こうなってくると、「お前の中の人は誰だ?」と問うことが意味をなさなくなる。少なくとも、その問いは後景に引く。その時その場に見える「お前」でしかない。それが本物である。もしかしたら嘘かも知れないが、大抵の場合はそれを疑うことはナンセンスだ。

 Vtuberも同様である。彼女たちは彼女たち本人として僕たちに語り掛ける。僕たちは本物*1の彼女をそこに見るのだ。Vtuberにおいてもやはり、彼女たちは本物かという問いは意味をなさないのである。だって彼女たちはそこにいるではないか!(赤月ゆにを見ろ!!!)*2

 ところで、僕たちはVtuberになることができる。いわゆる「受肉」というやつである。「Vtuberという希望」というタイトルを付けたのはこのことに端を発する。

 僕たちは身体を持って生まれてくる。そして、それはガチャだ。可愛い身体に生まれてくるやつやカッコいい身体に生まれてくるやつらがいる一方で、そうではない身体に生まれてきたり障害というやつを有する身体に生まれてきたりする。誰かは忘れてしまったが、2000年代にどこかの哲学者が身体とアイデンティティは不可分であると言っていた。しかし、僕たちの生きているのはそういう時代ではない(土井隆義『キャラ化する/される子どもたち』の議論が傍証になるだろう)。生まれながらの身体を脱ぎ捨てて、Virtualな──それでいてRealな──身体をまとっていても良いのだ。そして、それが「本当の自分」でもあるのである。そういう身体に生まれ落ちたことは否定しようもない事実だとしても、そのことが「本当の自分」を決めるための重要な要素では決してない。いつまでも爆死したガチャにすがる必要はないのである。

 醜男がイケメンになっても良いし、バ美肉のように男性として生まれてきた人が美少女の身体を得てVtuber活動をしても良いし、さきゅばのえさん(のえろちさん)のように障害を有する人がそれが表に出ない姿で活動しても良い*3ガチャに頼らずとも、自分の在りたい自分でいても良い。これが僕がVtuberに見出す希望である。*4

 

 

*1:本物か偽物かという議論とは別の次元に来たので、厳密にいえば「本物」という言葉を使うのは適切ではない。

*2:なお、マリン船長の年齢設定がガバガバなのを見て楽しんだり、兎鞠まりの中の人がおっさんだから安心してガチ恋できたりするときにはこの問いは意味をなす。

*3:障害については眼鏡という道具が思い出される。僕は眼鏡をかけて晴眼者として生活しているが、眼鏡がなければ弱視と呼ばれていたかも知れない。銭湯に行ったときにはシャンプーとリンスを間違えるなど、「弱視」であることが有徴化されるが、普段は健常者である。これに似た事例については、海老田大五郎『デザインから考える障害者福祉』が面白い。

*4:整形などについても同様だと思われる。