ふるでぃーの本棚

読んだ本の内容整理。

哲学の勉強難しすぎない?

どういう仕組みなのかは知らないが、研究で使う方法論を紐解いていくと哲学に行きつく。

僕の場合はヴィトゲンシュタイン現象学にぶつかったのだが、これを勉強するのがなかなか難しい。

現象学は途中で心が折れたので勉強を中断している。

他方で、ヴィトゲンシュタインの方はちょっとだけ分かるようになってきた。

学類生のときに『論考』を読んでみたり、哲学の講義を覗いてみたりしていたのが報われたのだろうか。

院に来てからも少しずつ勉強していたのもあって、こちらの方は、なんとか入門書を見ても知っていることがほとんどという状態になってきた。

 

しかし、問題はこれからなのだ。

 

哲学は一般向けの入門書が山のように出ている。

それらをひとつひとつ丁寧に紐解けばある程度分かる仕組みができている。

ただ、その後がない。

大衆向けの入門書とアカデミックな専門書の間にある中級者向けの書籍というものがないのだ。

途方に暮れてしまった僕は、哲学系の後輩にどうやって勉強しているのかを尋ねた。

そうしたら、原著を読めとのこと。

それは、しんどいよ。。。

Vtuberという希望─身体とアイデンティティ試論─

 面白くもない会話に楽しそうに相槌を打つ。大してお世話になっていないのに、メールの挨拶はお世話になっておりますから書き始める。内心で思っていることと実際にやっていることが違っている。

 そういうことはよくあると思う。

 人と接しているときの人間は本当のその人ではないのかも。疑ってしまったら最後、こう問わずにはいられない。

 「お前の中の人は誰だ?」と。

 僕の記憶だと、中の人というのはアニメに声を当てている声優さんを指す言葉だった。声優という人格がアニメのキャラクターという別の人格のフリをしているのだ。私たちが見る(聞く?)キャラクターの声はその人の声ではなく、声優という別人の声なのである。一般的な観点から言えば、アニメのキャラクターは実在しない。姿格好はイラストレーターやアニメーターが生み出したものだし、声は声優が当てている。

 最近は、この「中の人」という言葉が使われる文脈が少し多くなっている。二次元のキャラクターの見た目でYouTube上で配信をするVtuberに対しても用いられるようになっているのである。可愛い女の子が近況や思ったことを話してくれたり、動画のコメントに対して答えてくれたりする。特に名取さなが可愛い。名取は顔も良いし、声も良いし、性格も良い。

 しかし、それは「虚構」である。彼らの世界では、キャラクターの設定では17歳なのに配信をしている本人は20代後半なんてことは日常茶飯事だ。当たり前だが、僕たちが見ている可愛い女の子は、彼女じゃない別の誰かが演じているのだ。

 ・・・でも、本当は彼女たちは実在するんじゃないか?

 これが本稿の主張である。もしかしたら、オタクが訳の分からないことを言っていると思われるかも知れないが、マジでこう主張したい(真剣と書いてマジと読む)。

 さて、ここで話のはじめに戻ろうと思う。

 僕たちはしばしば自分の心とは違った行動をとる。「心にもないことを言う」なんて言葉があるが、それが最たる例だろう。そのときに僕たちは、本当の自分はこうじゃないのになんて思ったりする。

 しかしながら、そんなのは勘違いである。どこが勘違いかというと、「心」や「本当の自分」を見つけることが自分だけの特権であると考えているところだ。

─本当は大好きな友達の悪口を言ってしまった。本当はそんなこと思っていないのに。

 こうなってくると、「お前の中の人は誰だ?」と問うことが意味をなさなくなる。少なくとも、その問いは後景に引く。その時その場に見える「お前」でしかない。それが本物である。もしかしたら嘘かも知れないが、大抵の場合はそれを疑うことはナンセンスだ。

 Vtuberも同様である。彼女たちは彼女たち本人として僕たちに語り掛ける。僕たちは本物*1の彼女をそこに見るのだ。Vtuberにおいてもやはり、彼女たちは本物かという問いは意味をなさないのである。だって彼女たちはそこにいるではないか!(赤月ゆにを見ろ!!!)*2

 ところで、僕たちはVtuberになることができる。いわゆる「受肉」というやつである。「Vtuberという希望」というタイトルを付けたのはこのことに端を発する。

 僕たちは身体を持って生まれてくる。そして、それはガチャだ。可愛い身体に生まれてくるやつやカッコいい身体に生まれてくるやつらがいる一方で、そうではない身体に生まれてきたり障害というやつを有する身体に生まれてきたりする。誰かは忘れてしまったが、2000年代にどこかの哲学者が身体とアイデンティティは不可分であると言っていた。しかし、僕たちの生きているのはそういう時代ではない(土井隆義『キャラ化する/される子どもたち』の議論が傍証になるだろう)。生まれながらの身体を脱ぎ捨てて、Virtualな──それでいてRealな──身体をまとっていても良いのだ。そして、それが「本当の自分」でもあるのである。そういう身体に生まれ落ちたことは否定しようもない事実だとしても、そのことが「本当の自分」を決めるための重要な要素では決してない。いつまでも爆死したガチャにすがる必要はないのである。

 醜男がイケメンになっても良いし、バ美肉のように男性として生まれてきた人が美少女の身体を得てVtuber活動をしても良いし、さきゅばのえさん(のえろちさん)のように障害を有する人がそれが表に出ない姿で活動しても良い*3ガチャに頼らずとも、自分の在りたい自分でいても良い。これが僕がVtuberに見出す希望である。*4

 

 

*1:本物か偽物かという議論とは別の次元に来たので、厳密にいえば「本物」という言葉を使うのは適切ではない。

*2:なお、マリン船長の年齢設定がガバガバなのを見て楽しんだり、兎鞠まりの中の人がおっさんだから安心してガチ恋できたりするときにはこの問いは意味をなす。

*3:障害については眼鏡という道具が思い出される。僕は眼鏡をかけて晴眼者として生活しているが、眼鏡がなければ弱視と呼ばれていたかも知れない。銭湯に行ったときにはシャンプーとリンスを間違えるなど、「弱視」であることが有徴化されるが、普段は健常者である。これに似た事例については、海老田大五郎『デザインから考える障害者福祉』が面白い。

*4:整形などについても同様だと思われる。

Jeff Coulter, The Social Construction of Mind(=西阪仰訳,1998,『心の社会的構成』,新曜社.)その2

第二章

一 コンテクスト内のするまい

1.心的概念(「理解」や「意図」など)の公的な基準は状況に縛り付けられている。

1.1コンテクストを分析することではじめて、何がその都度特定の場合ごとに、適切な帰属のための基準・表明の承認のための基準として数え得るかを知ることができる。

1.1.1.「基準」とは、その当の場面に固有な細かな事項である。

1.1.1.1.「基準」とは厳格な意味規則として理解されるべきではない。

1.2.「理解」という言葉は、一定のコンテクストにおいて実際のコミュニケーション上の目的に従って適用可能である。

1.2.1.「理解」は達成された成果である。

1.2.1.1.「理解する」という語は「遊ぶ」のような過程動詞ではなく、「勝つ」のような達成動詞あるいは終局動詞である。

1.2.2.「理解」はその状況において適切な行為の仕方で行為できることと結びついている。

1.2.2.1.理解していることを自ら合理的に表明あるいは他人に合理的に帰属できるための諸基準は公的なものであり、コンテクストの内に与えられている。

1.2.3.理論家のなすべきことは「理解」がどう用いられているか吟味することである。

1.2.3.1.「理解」という言葉の語義やその指示対象を特定することばかりに気を取られるべきではない。

1.2.4.理解していると思うことと実際に理解していることは別である。

1.3.「意図」の記述は行為(もくろまれた行為)の記述であって、心の中で起きる特殊な経験の記述ではない。

1.3.1.自分の意図を公表することは、ある行為をするべく自ら身構えること、あるいは、ある行為をすることを自らに許すことである。

1.3.2.他人に「意図」を読み込むことは、当該状況の様々な事実を見極めることである。

1.3.4.人間の行為が意図的だと記述することが理にかなっているのはあるコンテクストにおける一定の行為だけである。

1.3.4.1.意図の合理的な表明・貴族は、それぞれその時々の機会にない属している。

1.3.5.「意図された意味」なるものを考えることはナンセンスである。

1.3.5.1.行為や語られたことの相互理解が可能であるためには共通の基盤として慣習がなければならない。

1.3.5.2.慣習的意味は意図と無関係に与えられている。

1.3.5.2.1.通常のコミュニケーションでは意図と独立に意味を確定できる。

1.3.5.2.1.1.そうでなければ無限後退に陥る。

 

二 言語の理解とは、規則にしたがった「心的操作」のことなのか

1.我々は、言語をあるがままに理解する。

1.1言語の日常的使用や理解に心的イメージ・具体的なサンプル・言い換え・解釈・規則は必要ない。

1.2.言語は訓練によって獲得される。学習者は言語で物事を言い表しながら、自分の必要と目的を満たしていく(自己充足していく)ようになる。

1.3.言語の理解に解読規則の存在を仮定することはナンセンスである。

1.3.1.規則は普遍的なものではなく、コンテクストを必要とする。

1.4.行動に規則性が認められるからといって、規則に従っているとは言えない。(潮風による砂浜の模様を記述し、コンピュータにプログラムできたとしても、潮風自体が砂の模様を描くようプログラムされていることにはならない。)

1.5.「心理」現象や「主観的」現象を理解することの可不可を問うことはできない。

1.5.1.それは「確実さ」の次元の問題である。

1.5.1.1.それらに対する疑いは論理的に排除されている。

 

三 慣習丈あって当然の前提と認知に関する決定

1.通常の分化成員たちは、成員として資格を持つものである以上、彼等自身コンテクストの分析者であり前提の分析者である。

1.1.自然言語と共通文化に習熟しているものを成員とみなす。

1.2.成員ならば、ある人が何か言ったとき、その話の内容から、その人が何を信じ、何を知っており、何を意図し、何を理解しているのかについて、その人が実際に語ったこと以上のことを推論できる。

2.社会的なふるまいは一定の知識ストックを前提としてなされる。

2.1.「慣習上あって当然の前提」という考え方によって、成員たちの「心」を透明なものとすることができる。

2.2.話す・聞くための「コンテクスト」を支える基盤の主要要素の一つが会話における順番交代である。

2.2.1.会話における順番後退は参与者同士が共同で管理する連携システムとなっている。

2.2.1.1.通常の場合には、まず、先行する相手の発話が何を前提としているように聞こえるかを的確に分析し、ついで、その分析に基づいてその相手の発話に自分の発話を結合していく。

2.2.1.1.1.何が前提となっているかは、話しての成因カテゴリーが何とみなせるか、どのような状況かに依存する。同時に前後関係上の組織にも依存する。

2.3.日常生活において、前提は成員たちの主観的状態や信念・知識があからさまになる厳選である。

2.3.1.発話に特定の前提が慣習丈あるとみなされる場合、この前提を通して成員たちの主観性は可能になる。

2.3.1.語る事柄の前提とみなせるものと日ごろその人にあるとみなされている前提の一致・不一致によってその人の状態が理解できる。

2.3.1.1.この理解は秩序だってなされており、この分析こそ分析者としてなすべきことである。

 

四 心的述語の使用法

1.心的述語の帰属、表明の諸特性は、心にというよりはむしろ文化に属するものとみなされるべきである。

1.1.心的述語には動機・理解もしくは誤解・幻覚・認識・想起・忘却のようなカテゴリーなり語句なりが含まれる。

1.2.ふだん動機について語るとき、我々は理由付けや言語使用のための全論理的な慣習に従っている。

1.2.1.動機は文化によって与えられた描出手段である。

1.2.2.動機の貴族はカテゴリー付け問題でもある。

1.2.2.1.動機の帰属は、行為と人物の集積の中に、(すべての可能性の中から)その都度の実際に見合った仕方で一定の秩序を打ち立てることである。

1.2.2.2.特定のカテゴリーにあてはめることによって、そのカテゴリーにあらかじめ与えられた範式に従って一定の動機帰属の可能性が考慮される。

1.2.3.理解は達成された成果である。

1.2.3.1.言語が用いられるとき、そこにはその都度一定の構造が識別できる。この構造を通して会話当事者たちはどのような理解をその都度持っているか相互行為の中で互いに対して表示される。

1.2.3.2.成員たちは誤解が生じたとき、その誤解を受けた発話の前後関係上の組織を調べることができる。

1.2.4.想起と忘却の諸特徴は社会的に組織されたものである。

1.2.4.1.想起は純粋に心的過程であるわけではない。思い出す・憶えているということは取り消し可能な達成成果である。

1.2.4.2.成員たちにとって、記憶とは項目のつながりのネットワークとして考えられており、ある項目を思い出したならばある別の項目も思い出すはずだとされることがある。

Jeff Coulter, The Social Construction of Mind(=西阪仰訳,1998,『心の社会的構成』,新曜社.

第一章

一 行為の帰属・行為

1.行為は文化の内側から記述されなければならない。

2.記述もまた行為であり、コンテクストに依存する。

3.記述とはしばしば、行為の間に繋がりを作り出すということになる。

 

二 行為の因果説明

1.慣習的な約束事や行為はある種の曖昧さを持っている。

2.理由そのものと行為を結び付けて考えることはできない。

2.1.行為の理由を行為に先立って知ることはできない。

2.2.行為の理由を所持していることと、その人の心の状態は別である。

3.環境が行為とかかわるのは規範としてである。

3.1.逸脱もあり得るため、決定論的に行為を語ることはできない。

3.2.逸脱の一様性から行為者の活動は説明できない。

 

三 日常的活動へのエスノメソドロジー的関心

1.行為はしかるべき仕方でその場ごとに達成されていく。

2.様々な観察された相互行為の経過において理由付けはどのような構造のもとになされるか、成員たちはどのような慣習にどう志向しているのか、を分析していくことが目指される。

3.「常識」を持っている成員は秩序だった仕方で行動できるための手段を持っている。

3.1.そのような知識は「実践知」と呼びうる。

3.2.エスノメソドロジストは実践知を解明する。

3.3.実践知は「社会的構造についての常識的知識」の革新である。

4.実践知は自然言語の習熟と結びつきをもっている。

4.1.自然言語への習熟は言語の知識を超えた、実践知を獲得することになる。

4.2.常識としての能力は、ほぼ、自然言語を使う能力と同じ拡がりをもっている。

4.2.1.両社は互いを構成しあっている。

4.2.2.一方が変化すれば他方も変化する。

4.3.言語と共通文化は同時に学習される。

4.4.他人に語り掛けることを通して共通文化の綻び及び共通性を発見する。

4.5.発言するということは権利と義務のサンクションのシステムに参与することである。

4.6.発言から推論をする、また、結論を導く権利は、同じ自然言語を習得しており、同じ自然言語に参与することによって保障される。

4.6.1.専門用語使用者との間でも共通性は保障される。

4.6.1.1.専門用語は日常言語によって説明される。

5.社会的現実(コミュニケーション的相互行為の現実)を分析する際、内容的記述・説明と別の水準に立って研究しなければならない。

5.1.無自覚な規範的態度決定から自由である社会学として最も有望なのは、通常のコミュニケーション的相互行為を支えている理由付けや前提の抽象的な(形式的な)構造を研究することである。

5.1.1.このような企ても、実際的な理由付けや常識知から逃れられない。

5.1.1.1.常識には規範的な性格がついて回る。

5.1.1.1.1.常識そのものを研究対象とすることができる。

5.1.2.このような研究には自然に生起する会話のトランスクリプションが用いられる。

6.理由付けの構造は文化的である。

6.1.発話や行為の意味は文脈依存的である。

6.2.エスノメソドロジーのコンテクストにおいては、いかなる脱文脈的な適合規則もあり得ない。

6.3.理由付けとコミュニケーションの一定の側面が明らかにできるならば、それで分析は健全である。

 

四 規範的描写と分析的解明

1.会話分析を通して提示された分析的命題は、もしそれが正しければ、それぞれ別sのデータを解明するのにも役立つ。

2.これは、析出された特定の慣習や理由付け・手続きは当該の自然言語共同体のどの成員も利用できるからである。

3.社会学的研究は社会的相互行為の具体的な個々の事柄との結びつきを失ってはならない。

4.社会学的問題が社会的問題と取り違えられてもいけない。

4.1分析的な問題は規範的な事々の織り成す常識的世界の中でどの立場をとるかということに限定されてはならない。

このブログについて

文章の練習と思考の整理をせねばならんということでブログをはじめました。

多分3日坊主になるやつ。

とりあえずは、読んだ本とその本を読んで考えたことについて記していこうかなと。

 

自分用だから他の人の参考になるようになんてことは考えてないけれども、文章の練習なので他の人が理解できる程度の文章が書けたらと思う。