Jeff Coulter, The Social Construction of Mind(=西阪仰訳,1998,『心の社会的構成』,新曜社.)その2
第二章
一 コンテクスト内のするまい
1.心的概念(「理解」や「意図」など)の公的な基準は状況に縛り付けられている。
1.1コンテクストを分析することではじめて、何がその都度特定の場合ごとに、適切な帰属のための基準・表明の承認のための基準として数え得るかを知ることができる。
1.1.1.「基準」とは、その当の場面に固有な細かな事項である。
1.1.1.1.「基準」とは厳格な意味規則として理解されるべきではない。
1.2.「理解」という言葉は、一定のコンテクストにおいて実際のコミュニケーション上の目的に従って適用可能である。
1.2.1.「理解」は達成された成果である。
1.2.1.1.「理解する」という語は「遊ぶ」のような過程動詞ではなく、「勝つ」のような達成動詞あるいは終局動詞である。
1.2.2.「理解」はその状況において適切な行為の仕方で行為できることと結びついている。
1.2.2.1.理解していることを自ら合理的に表明あるいは他人に合理的に帰属できるための諸基準は公的なものであり、コンテクストの内に与えられている。
1.2.3.理論家のなすべきことは「理解」がどう用いられているか吟味することである。
1.2.3.1.「理解」という言葉の語義やその指示対象を特定することばかりに気を取られるべきではない。
1.2.4.理解していると思うことと実際に理解していることは別である。
1.3.「意図」の記述は行為(もくろまれた行為)の記述であって、心の中で起きる特殊な経験の記述ではない。
1.3.1.自分の意図を公表することは、ある行為をするべく自ら身構えること、あるいは、ある行為をすることを自らに許すことである。
1.3.2.他人に「意図」を読み込むことは、当該状況の様々な事実を見極めることである。
1.3.4.人間の行為が意図的だと記述することが理にかなっているのはあるコンテクストにおける一定の行為だけである。
1.3.4.1.意図の合理的な表明・貴族は、それぞれその時々の機会にない属している。
1.3.5.「意図された意味」なるものを考えることはナンセンスである。
1.3.5.1.行為や語られたことの相互理解が可能であるためには共通の基盤として慣習がなければならない。
1.3.5.2.慣習的意味は意図と無関係に与えられている。
1.3.5.2.1.通常のコミュニケーションでは意図と独立に意味を確定できる。
1.3.5.2.1.1.そうでなければ無限後退に陥る。
二 言語の理解とは、規則にしたがった「心的操作」のことなのか
1.我々は、言語をあるがままに理解する。
1.1言語の日常的使用や理解に心的イメージ・具体的なサンプル・言い換え・解釈・規則は必要ない。
1.2.言語は訓練によって獲得される。学習者は言語で物事を言い表しながら、自分の必要と目的を満たしていく(自己充足していく)ようになる。
1.3.言語の理解に解読規則の存在を仮定することはナンセンスである。
1.3.1.規則は普遍的なものではなく、コンテクストを必要とする。
1.4.行動に規則性が認められるからといって、規則に従っているとは言えない。(潮風による砂浜の模様を記述し、コンピュータにプログラムできたとしても、潮風自体が砂の模様を描くようプログラムされていることにはならない。)
1.5.「心理」現象や「主観的」現象を理解することの可不可を問うことはできない。
1.5.1.それは「確実さ」の次元の問題である。
1.5.1.1.それらに対する疑いは論理的に排除されている。
三 慣習丈あって当然の前提と認知に関する決定
1.通常の分化成員たちは、成員として資格を持つものである以上、彼等自身コンテクストの分析者であり前提の分析者である。
1.1.自然言語と共通文化に習熟しているものを成員とみなす。
1.2.成員ならば、ある人が何か言ったとき、その話の内容から、その人が何を信じ、何を知っており、何を意図し、何を理解しているのかについて、その人が実際に語ったこと以上のことを推論できる。
2.社会的なふるまいは一定の知識ストックを前提としてなされる。
2.1.「慣習上あって当然の前提」という考え方によって、成員たちの「心」を透明なものとすることができる。
2.2.話す・聞くための「コンテクスト」を支える基盤の主要要素の一つが会話における順番交代である。
2.2.1.会話における順番後退は参与者同士が共同で管理する連携システムとなっている。
2.2.1.1.通常の場合には、まず、先行する相手の発話が何を前提としているように聞こえるかを的確に分析し、ついで、その分析に基づいてその相手の発話に自分の発話を結合していく。
2.2.1.1.1.何が前提となっているかは、話しての成因カテゴリーが何とみなせるか、どのような状況かに依存する。同時に前後関係上の組織にも依存する。
2.3.日常生活において、前提は成員たちの主観的状態や信念・知識があからさまになる厳選である。
2.3.1.発話に特定の前提が慣習丈あるとみなされる場合、この前提を通して成員たちの主観性は可能になる。
2.3.1.語る事柄の前提とみなせるものと日ごろその人にあるとみなされている前提の一致・不一致によってその人の状態が理解できる。
2.3.1.1.この理解は秩序だってなされており、この分析こそ分析者としてなすべきことである。
四 心的述語の使用法
1.心的述語の帰属、表明の諸特性は、心にというよりはむしろ文化に属するものとみなされるべきである。
1.1.心的述語には動機・理解もしくは誤解・幻覚・認識・想起・忘却のようなカテゴリーなり語句なりが含まれる。
1.2.ふだん動機について語るとき、我々は理由付けや言語使用のための全論理的な慣習に従っている。
1.2.1.動機は文化によって与えられた描出手段である。
1.2.2.動機の貴族はカテゴリー付け問題でもある。
1.2.2.1.動機の帰属は、行為と人物の集積の中に、(すべての可能性の中から)その都度の実際に見合った仕方で一定の秩序を打ち立てることである。
1.2.2.2.特定のカテゴリーにあてはめることによって、そのカテゴリーにあらかじめ与えられた範式に従って一定の動機帰属の可能性が考慮される。
1.2.3.理解は達成された成果である。
1.2.3.1.言語が用いられるとき、そこにはその都度一定の構造が識別できる。この構造を通して会話当事者たちはどのような理解をその都度持っているか相互行為の中で互いに対して表示される。
1.2.3.2.成員たちは誤解が生じたとき、その誤解を受けた発話の前後関係上の組織を調べることができる。
1.2.4.想起と忘却の諸特徴は社会的に組織されたものである。
1.2.4.1.想起は純粋に心的過程であるわけではない。思い出す・憶えているということは取り消し可能な達成成果である。
1.2.4.2.成員たちにとって、記憶とは項目のつながりのネットワークとして考えられており、ある項目を思い出したならばある別の項目も思い出すはずだとされることがある。